KINEYA Chronicle
キネヤ年代記
あまたある「日本のフライフィッシングタックルメーカ」の中で、
ただひとり孤高のポジションにある「KINEYA」
もっとも異彩を放つドメスティックブランド、
「KINEYA」とはいったいなんなのか。
「KINEYA」を「KINEYA」ならしめている、キネヤ主人こと奥居正敏。
みずからはこれまでなにも語ることをしなかった、
奥居正敏との対談を通して、
「KINEYA」の歴史をたどりながら、
「KINEYA」デザインと「KINEYA」的スタイルを明らかにします。
〈目次〉
第1章 1980~1990年代中頃 ビンテージタックルショップの頃
第2章 1990年代中頃~1999年 リールメーカー初期
第3章 キネヤ年代記外伝 LM(The Leonard Mills Reel Ron Kusse Maker) のこと
第4章 「KINEYA」城南宮から京北へ
第5章 日本のハイランドミルズ
〈付録〉「KINEYA」年表と歴代のモデル
〈あとがき〉 キネヤさんのこと
第1章 1980~1990年代中頃 ビンテージタックルショップの頃
K ごぶさたしていました。
今日は「キネヤ」とフライフィッシング・タックル・メーカーとしての「KINEYA」について、
キネヤの主人である奥居さんに、キネヤの歴史やこれまでに作ってこられた作品や製品をみずから語っていただこうという趣向です。
O よろしくお願いします。
でも、僕の話を聞かなくても川嵜さんはキネヤがクラシック・タックルを扱い始めた頃のことからみんな知ってはるやありませんか。
K それはそうなんですけど、今回は「KINEYA Chronicle」としてまとめないといけませんので。
O そうですね~、
でも急には思い出せないですよね~
史実てのはドロドロしてるものですからね~
でも言葉を選ばないとダメやろね~
少しは実名も出さないと、話しが見えないしね~
K ね~ね~言ってないで、まじめに思い出して下さい。
O は~
まっ、いつ凍え死ぬかもわからんし、喧嘩売っとこか!
※(このインタビューは2009年正月、雪の降り積もる中、厳冬の京北「KINEYA」でなされました。
「花垣 冬のしぼりたて」をグラスで飲みつつ、薪ストーブを囲んで続けられた対談なので、こんなさむそ~な言葉や酔っぱらい発言も出るようですが・・・)
K 喧嘩はうらんでもえ~です、事実を暴露するぐらいで・・・。
ところで奥居さんが三条大橋横の店でクラシック・タックルを扱い始めたのっていつ頃でしたっけ。
確か「フライの雑誌」が創刊された前後で、裏表紙に大きく広告を出してはりましたよね。
僕なんかはその広告を見て、えらい店が京都に出来たんやなーって。
O アメリカのヴィンテージ・フライタックルを本格的に扱う店は当時の日本では希だったようですね。
K そのきっかけはなんだったんですか。
O もともと、父の代からのカメラ屋で「キネヤカメラ店」て言ってました。
「キネヤカメラ店」は中古専門のカメラ屋でした。良く言うとビンテージカメラショップやね。
・・・1970年代後半に家業を継いだ僕は、80年代に入ってビンテージカメラを仕入れにアメリカへ行き出したんですね。
だから~、多分1982~3年頃、
カメラを買い付けに行く傍らクラッシクタックルに気を留めだしたのかな~
まったくタックルショプを始める気などなかったんやけどね。
趣味でカメラの横にヴィンテージ・フライタックルを並べ始めたのが、1987年頃。
正式には1988年6月、タックルショップの「KINEYA」をオープンしました。
でも 続ける予定ではなかったんで3年間ぐらいで仕入れするのを止めた・・・
ブツブツ・・・・
K まあまあ・・・
商品はアメリカから直接買い付けられていたんですよね。
O そうです。他にないからね~
良い物は世界中から経済力のある国へ流れ込みますからね。
当時(1980年代)50年〜70年代のあらゆる名品が集まっていた国は、アメリカだったと思います。
アメリカ各地で開催されていたヴィンテージ・タックルのオークションやコレクター個人のお宅へ買い付けに行きましたね。
著名なビルダーさんや、キーンさんやカーマイケルさんちにも行きましたよ。
馬鹿な話しやけど、買い付けのための現金はすべて100ドル紙幣で持っていってね。
いちど銀行へ行く時間が無くて空港の両替所でドルに替えたことがあるんですけど、各種ドル札の詰め合わせパックしかなかってリュックサックひとつがドル紙幣で満杯になった事があったな~
ビニール袋でくるんでもドル紙幣のインクの臭いが鼻をつくので街を歩くのがヤバかったですよ~
当時の東京銀行なんかで円を100ドル紙幣にまとめて交換すると連番でくれるんです。
日本円の帯封とはちがってね。100枚がxxxx1~xx100までゆるゆるの意味の無いたすきで巻いてあってね。
そういう札束を持っているとカメラ店はともかくフライタックルの個人コレクター達には不審がられましたよ。
ほとんどの人が一枚ずつ透かしながら引っ張ったりして数えていましたね。
何分かかっとるんやっ!札の番号見たら解るやんか!ってね。
景気のよかった頃ですよ・・・
K 「爺さんの昔話」を聞いてるみたいですね。
O まあまあ・・・
H.B.カーマイケル著「A MASTER’S GUIDE TO BUILDING A BAMBOO FLY ROD 1977 Everett Garrison with Hoagy B. Carmichael」 普及版や復刻版とは違って、
これこそが本物の初版・限定版でブランクの断片が付属しています。
※前者はクラシックタックルコレクターの、後者はバンブーロッドビルダーにバイブル扱いをされている書籍です。
※現在では古書としても、めったに市場に出ることのない
稀覯本となっています。
余談ですが、アメリカで個人バンブーロッドビルダーが出現したのは1970年代の後半、第二次世界大戦以降拡大し続けていたアメリカ資本主義が初めて行き詰まった時なんですね。なんだか暗示的でもありますが・・・
O そんなある時、カーマイケルさんがぽつりと言ったことばがあります。
「いつでもあると思わないで下さい。これは私が何年もかかって集めたものなんですからね」って。
僕は、この言葉が、今でも忘れられない。
そうこうしていうるうちに、ビンテージ・タックルをアメリカへ買い付けに行く人も増えて、多くの日本人が素晴らしい作品に触れる機会が増した反面、 心ならずも、”H. L. LEONARD” や “PAYNE” といったビンテージ・タックルの価格が高騰し、アメリカにおけるフライフィッシング文化の遺産とも言うべき名品がアメリカ国外、特に日本へと流出していったんです。
K 当時この国はバブル景気の真っ最中でしたからね。
美術品から不動産まで世界中から金にまかせて買い漁っていましたよね。
O 現金で10万ドルほど持って行って、アメリカからスーツケースにぎっしり詰め込んで持って帰ってきたライカなどのアンティーク・カメラが即日完売っていう状態やった。
そのうえ、僕の店からカメラを買って帰った他府県の業者が次の日にはそれに凄い値段つけて売るんやからね~。
少し珍しい物なら何でも売れた。
K 釣具もそうでしたよね。
当時の「KINEYA」には、あのキーン氏の本でしか見たことがないようなとんでもないクラシック・タックルがゴロゴロしていたもんね。
Pポール・ヤング(P. H. Young)
初代、ポール・ヤング時代に特徴的なグリップ(細く、隙間を空けたものもある)やアルミフェルールが付いたロッドが見られます。
Perfectionist / Martha Marie / Midge (金文字)
/ ほねほねMidge などがあります。
ギラム(H. S. Gillum)、
ギャリソン(Everett. Garrison)
う~ん、今なら新型の911が買えそうな・・・
なんて、ついお金に換算して考えてしまうところにギラムやギャリソンの問題があるような気がします。
ここまでくると釣り道具と言うよりは骨董的な価値観の世界になるんでしょうね。
ペイン(E. F. Payne)
デタッチャブル・バットが付いたライトサーモンロッドは、すごくかっこいいのですが、ボグダンを付けて川で使うとさすがに重かった・・・
ペイン(E. F. Payne)
いちばん下のがE. F. Payne時代のロッドです。他はJim Payne時代のロッド。
パラボリックなどの珍しい竿もありました。
上から、100 / 98 / Parabolic / 102 / 204 / E.FPayne
カーペンター( W. Carpenter)
6f#3のシンプルなスタイルや、当時奥居さんが気に入っていたコスミック的なグリップが目を惹きます。
すべて、未使用品です。
オークションや信頼の置けるバイヤーが使う、NewまたはMint Conditionとは、未使用品のことを言います。
カーペンター (W. Carpenter) 、オービス(Orvis)、ウインストン(Winston)など、
Orvis One pice / Winston / Winston / T&T / Carpenter / Carpenter / Orvis
カーペンターはブラウントーンです。
もう一本マホガニーの段巻きって言うとんでもないのがあったのですが、
写ってませんね~。
いちばん下のはオービスのワンピース。
ハウエルズ(G.H.Howells)のワンピースが見えます。
下の2本はタルボット€(Al Talbott)のワンピース。
タルボットはハウエルズのミリングマシンを製作したビルダーです。
他に、ジェンキンス€(Charles Jenkins)、
サムカールソン(Sam Carlson)のクアッドも。
サマーズは奥居さんがいちばん好きな個人ビルダーだったようです。
ダックのギャリソン・レプリカは本物と比べても遜色がないほどの出来でした。
2本目がハウエルズ#3700。
ウインストン社から独立したハウエルズが個人ビルダーとして初めて作った記念すべき竿がこの#3700です。
マクスウェル・レナード
Hunt 39 #4 / Hunt 38 #3 / Hunt 47 #4 / 37#4 / Duracanea
下2本はリフィニッシュした38。
レナード(H. L. Leonard)
WWⅡ以降、’70年代半ばまでのレナード。
いっぱいありすぎて何が何だか・・・
珍しいのでは、ベビー・キャツキル、A.C.M.38、が真ん中に見えますね。
他の店で「世界に一本」といって売っていたのと同じ竿が「キネヤ」には3本並んでいたっていう笑い話もありましたね。
僕はギャリソンやポール・ヤングなんかはあまりにも無造作に何本も転がっていたので、稀少価値を感じることもなくショボイ竿やなって思ってたし、初めて見たギラムをきたない仕上げのペインやな~、なんて勘違いしてましたよ。
奥居さんと店のすぐ側を流れる鴨川の三条河原で初代ポール・ヤングとサマーズのミッジを振り比べる、なんてこともしましたよね。
ポール・ヤングに比べてギャリソンって振ってみるとそんなにたいしたアクションじゃないよね~、なんて言ったりして(笑)
ハウエルズなんて#3700という、まあなんて言うかとんでもないシリアルナンバーの物があったしね。
ペインの102やマーサマリーなんかを琵琶湖のバス釣りに使ったからなあ、バチ当たるかも。
僕も「爺さんの昔話」してしまいましたね~、ははは・・・
しかし、あれだけの質・量ともにすごい物を日本に持ってきたってことは、アメリカン・ビンテージタックルの価格急騰と国外流出には心ならずも奥居さんが係わってしまったわけでしょ。
O そういえばそうやね。
酷い話やね~
ただ、さっきも言ったカーマイケルさんの言葉がいつも引っ掛かってた・・・
そんなこともあって、もんもんとアメリカの各地で開催されていたオークションへ通っていたんやけど、
ある時、ふと、
「僕も自分の国の釣り文化を自慢しょう!」
って思ってね。
単純な事なんですがこの事に気がついた時はテンション上がりましたよ~!
もう、やる気満々!
釣り具だけに、まさに「眼から鱗」やね。
それから お気楽なアメリカの田舎町へ出かけるのが楽しくてたまらなくなってね。
オークション会場や周辺で開催されるテーブルショウに出展することで、異文化の国であるアメリカの人々と隣り合って話しをし、あらためて文化の違いに気がついたり、発音の違いに気づいたり・・・
そうそう・・・たとえば、今となっては当たり前なんですけど、「H. L. Leonard」の「Leonard」って発音ですが、当時の日本では雑誌やカタログなどに「レオナルド」って書いてあったんだけど、僕は現地での発音に近い「レナード」って言いはったんです。
僕が受けた当時の問い合わせは、7割以上が「レオナルドのレッドラップ有りますか?」でした。
だから毎回、
「レナードのレッドラップですか?」「何年頃のです?」「お好みの番手は?」「長さは?」・・・なんて聞き返してね~
意地悪やね~
でもはっきりさせないと、話しができないでしょ~
「レナードのレッドラップの様なアクションが好きなんです」ってのは、ほとんどの場合使い込んで腰の抜けたような、
悪く言うとべろんべろんのロッドをイメージしていたようやね~
僕自身、’70年代後半頃に初めて買ったまともなフライロッドは「レナード39M」ハニーラップやったんやけど、この竿はテッド・シムロさんが作っていた頃の製品で、いわゆるアメリカンミディアムアクションっていうのかな~、しかも、7f 6in で、ナローテーパー(※アメリカではテーパーの変化率が小さい竿をこう表現していました。スムーズなアクションになります)のこの竿を基準にして話をしていたんです。
この竿と比べるとKINEYAで在庫していた古い時代の良いコンディションのレッドラップはほとんどが、6f~7f、だったから、印象は、しなやかなのにかなり速いアクションだと自分では感じてた。
「スローテーパーが好きで・・」てのもよくわからない話しで、アクションとテーパーを混ぜて言われてもややこしい話しになるでしょ。 だから、「テーパーは変わりませんが、使い込むとお好みのアクションになりますよ!」てなことを何度か言ったな~
K 最高のバンブーロッド=「レオナルドのレッドラップ」っていう時代でしたからね。
それに、レナードって、モデルや、長さがいくつもあるし、感じるアクションもかなり違う。
単に「レッドラップ」って言うだけだと戦後すぐのDFからマクスウェルの頃まで、テーパーは別にして、ものすごい種類があるでしょ。 僕はいろいろ悩んだ末に’50~’60年代の38を買いましたよ、まだDFとかACMがあった頃のバットの細いやつね。キャッツキルシリーズだっけ?
O よう解らんな~
いろんな言い方は、製造年とかラッピングや竹の色とかで呼び方を変えてるだけやと思うけど・・・
15~6年前に、レナードの元副社長が、
昔から、マックスウエル前まで、テーパーは変わってない!」 って言い切ってたよ!
昔って何年前のことか解らんけど・・・、言われてみれば「そうやな~」って思うところもあるでしょ?
シリーズの平均的な特徴で話しをするんやけど、古いテーパーってえらいナローやしね。
特にA.C.Mって言うからにはパラボリック言うてもええんちゃうの!それこそ大昔の100年前から1960年頃まで作ってたでしょ~
あれって、テーパー同じっぽいですぞ!
(あえて言い張る、KINEYA主人! 酒が効き出し調子が出てきた様子・・・)
K でも、そうかも知れんね~
それに竹竿は使っているうちに感触が変わっていくものだしね。
ダメな竿や、使い方や保存状況が悪い竿はほんとに腰が抜けてるけど・・・
もっと酷いのは最初から腰にハリがない。フニャ××みたいに。
O ようわからん事言わんとこ~っと、
僕の言う事は、文献等の裏付けが無いからね~、聞き流してね~
K 文献的なことや考証学的なことは聞かへんって。
奥居さんはただひたすら膨大な数の本物を使ったりいじくったりしてたけど、文献マニアやデータマニアとはちゃうの知ってるし・・・。
アメリカで文献にも出てないようないろんな真実を聞いてても、ど~せ興味ないからって覚えてへんやんか。
お酒飲んでるときに、
「あ~、そういえばこんなことあったわ・・・」って突然思い出すぐらいで(笑)
O まあ、とにかく、
自分の素性を明かす事でお互いを知り、互いに尊敬したり、
同じ目線で文化としてのフライフィッシングを楽しめるようになったんです。
出展者って、楽しむ為に集まってるんです。
酒飲んで美味いもの食ってワイワイするのって楽しいでしょ!
主人最初の頃は和竿とか鮎ばりとか身近にあった日本の伝統的な釣り具なんかを持って行ってました。
なんか変やったけどね~。でも、結構うけましたよ。
テーブルショウ会場の野外に設置されたテントの下で日本の釣具の説明をするKINEYA主人ショウではいろんな人に会ったんですけど、みんな気の良い普通のオヤジってイメージでしたよ。
あの著名な「~さん」は おばちゃまでした! とか・・・。
実に楽しかった。
そのうちとあるリール屋さんのオヤジさんに会って、話してるうちに日本の代理店契約100台で良いよ!
ってなことになって、即買いしちゃってね~。
そのとき仕入れたリールは近所の卸屋に頼んで業販してもらったんです。
このリールですけど翌年、当時、年中セールやってたあるショップが扱いだしておしまい。
たくさん、メンテナンスパーツ在庫したのに・・・
K ああ、あの店ね・・・
O 気分悪かったね~ でも仕方がない。 売る人がいて、買う人がいる。
安売りしようが高く売ろうが「売り手の勝手」ってね~ そやけど、作者やメーカーのイメージってのがあるでしょ!
どんなに良いメーカーであっても安売りされたらイメージ悪いじゃないですか。
また、安く売れるんやったら最初から相応の値段で売れっ!って話しですよ。
安く作る為に海外で大量に作る時代がありましたよね~。
K いまでもそうなんじゃないですか?
O 原価3,000円で作って18,000円で売るんやから、いきなり在庫処分して半値で投げてもメーカーは損しない!
メーカーと言ってもほとんどがブローカーみたいなもんやけどね。
その結果、ユーザーから「定価で買わされて損した~」って恨まれるのは「小売店」ってな図式になるわけです。
気の毒なのは小売店ですよ。
最初から安売りを想定しているのに通常の卸し値で仕入れさせられて、気がついたら別会社とかアウトレットセールなどで同じ物を投げ売りされているんですよね。
まっ、この世の中、それも双方の責任ってことなんでしょうけどね・・・
まして昨今インターネットオークションなんてものが流行してるでしょ~
昔は、どこにでもある物を売ってるのが良い小売り店やったんやけど、 今は逆になりましたよね〜
えらいことになってきました。
K なんか話が・・・(とか言いながら、面白いのでつい酒を勧めるK)
O まあ「物流にもエチケットがあるやろっ!」て事です。
ちょっと「話し」戻しましょか?
K そうですね。
O まあ、あれこれ脱線しましたが、
色々見て感じたんは、”Fly Fishing”のマニア界って「とても小さな世界」ってことなんです。
でも、20数年前 XXさんの豪邸にお邪魔した時、庭でポニーが2~3頭砂浴びしてましたよ。
邸内はとても優雅な雰囲気が漂っていました。
うらやまし~
しかし、工房には、なぜかトヨのミニレースと卓上ボール盤だけしか見受けられなかっらなかった。
「あれっ?」って思うでしょ、メーカーだと思ってたからね・・・・
あっ!
思い出した!
「XXXのメモリアルリールを150台作るから何台か買って」
って言うから、100台買ったんですけど、
「材料を買うので~~」とか言うから、先に支払いしてあげたんです。
3ヶ月ほどして50台ずつ、合計100台送って来たんやけど、
しばらくして「20台返して欲しい」って言うから、
送り返してやったんですが・・・・ そのままうやむや、 返金されずおしまい。
誰が馬鹿野郎なんやろ? 誰がアホやって言うたら僕やけどね!
K う~ん・・・
O リール以外にも、「支払ったのに物を送ってこない」とか、「羽根にウジわいてる」とか、「品物足らん」とかよくありましたよ・・・ でも、いちいちかまうの邪魔臭いでしょ、よけい腹立つしね!
つい「もういいわ」ってなるんですよ。当時はお金あったから・・・・
だったら、「どうするかっ!」
フライフィッシングとタックルを愛する者やったら、誰でも「自分で作るしかない!」って思うでしょ。
K そんなこと普通は思いませんって。
でも、その辺りがフライフィッシング・タックル・メーカーとしての「KINEYA」をスタートさせた理由になるんですね。
O 天高く馬肥ゆる秋のある日、
「まさしく今、現代の文明を利し、文化を創造するべし!」
と突如思い上がり、家族親戚友人に多大な迷惑を及ぼすに至る一歩を迷わず踏み出すハメとなった・・・。
って、以前あった「KINEYA」のブログもに書きましたが・・・。
K あのブログ、けっこう面白かったんですけど無くなっちゃいましたよね。
ひとことで言えば、奥居さんはビンテージ・タックルの売買っていう商売が嫌やったんでしょ。
言い換えると「いつでもあると思わないで下さい・・・」という あの人の言葉が心を動かし続けていた・・・
バカ買いしてフライフィッシングの心にぽっかり穴を開けてしまったような気がしたから、
お詫びに物を作って埋めようと考えた、と。
O それそれ! 良く解ってはりますね~
K 何回も言うてはりますやん。
O レナードの墓の前で、なぜかいきなり「世界一のメーカーになります」って手を合わせてたってことも言いましたっけ?
K 当時ショップしてたから、普通なら「世界一のタックルショップになります」って言うところやのに、なんでか「メーカーになるっ!」って手を合わせてしまいはったって話しでしょ・・・
O はい! 良く出来ました。
それから何ですか?・・・
K 確か、1992年からお店をしながら気ままに自分の好きなフライリールを製作する副業を始めて、1998年には、凝りが嵩じてカメラ&タックルショップを一方的に閉店して、フライリールやフライフィッシングタックルの生産にのめり込んでいったということでしたよね。
O そのようであらせられます・・・・
いろいろあったんですけどね~ まっ、偶然と言うか必然と言うか・・・・
2000年の4月に「KINEYA」ブランドを設立するまでには、
僕がOEMで製作したリールの生産累計は、約20機種、3,500台弱ってなことになってたんです。
K そんなにたくさん作っていたんですね。
奥居さん1人やったのに。
O 正確には、家族や友人を巻き込んでましたけどね~
リールメジャー5,000個を家族全員で、3ヶ月で作ったてのも あったかな~
たまに偉そうなアルバイトのオッチャンが来てくれてたけどね・・・
第2章 1990年代中頃~1999年 リールメーカー初期
K 僕は奥居さんが三条大橋横にあったクラシック・カメラの店で、パンを焼くオーブントースターを使って、
「油入れてチンしたら、燻銀みたいにいい感じになるねん」
なんて言いながら、店を煙りだらけにしてニッケルシルバー製のリールフットを焼いていたのは知ってますが、よく考えたらリール本体を作っているのは見たことがないんですよ。
リールの本体はどこで作ってたんですか。
O 1992年頃から KINAYAの店先で組み立てだけしてたんやけど~
部品は、バネ屋さんとか、ネジ屋さんとか、他にも4~5軒の金属加工屋さんに作ってもらってたんやね~
一軒で全部の部品が出来なかったから・・・、集めるのに苦労したよ~
バネ屋さんは滋賀県やし、リールフレームは大阪の横あたり・・・
でも、職人さんの顔見て話しを聞くのも楽しいし、勉強にもなった。 原付で通ってたんやで~、凄いやろ・・・
そうそう、 今もやけど、特にその頃は加工費の相場ってのを知らんかったもんで・・・
納入価格が35,000円やった某OEM リールが、気がつくとパーツ代だけで50,000円!てな事があったんよね~
50台作ったから、えらいマイナスやった・・・
税理士さんに「何にもせんとき!」っていつも言われてた。 今でも・・・
OEMは最初に値段が決まってるんよね~
「リールいらんか~?」って言うたら、「これぐらいで売れそうなリール作って」ってブローカーが言いよるんや~。
そやけど、作り出して、ふと気がつくと予算をオーバーしてる!!
それに当時は「何事も勉強」と思ってたしね~、原価は気にしてなかったって言うか・・・
まあ、今は全部自分で作るし、やりたい放題やけどね!
K そんな事言うたはるしあかんのです。
もし奥居さんいんようになって同じ物を外注しよう思たらえらい値段になりますよ。
O いや・・
現物渡したら上手い事複製するよ~
いろいろ、僕の承諾無しに作ったはるわ・・・
某国が真似してるんと違て、日本のブローカーが複製させてるんやけどね・・・
K 結局「メーカー」って言う「ブローカー」にカモられてるんやないですかっ!
O 僕も世話になったし、ええねん、お互い様って事で・・・
K 作者の権利を守ろうとしないからこの国のフライ業界はあかんのです!
著作権とか使用権もそうやから、ことはフライ業界に限ったことじゃないんやけどね~
O そやね~、まあこっちサイドからすると「真似するに値する物が日本にも存在するって事を認識せえ!」って話しやん!
そやけど・・・・、僕も真似から始まったんやからね・・・・
大切なのは「真似するからには、越えろ」って話しやね!
本当に「良い物」って、見てるだけで欲しくなるし、真似もしたなると思う・・・
良い物って話しかけて来るし・・・ そんな時にアホなセールストークなんか聞きとないやいやん・・・
わ~、思い出した!
ずいぶん前にKINEYAの営業君が東京の某釣りX社にお邪魔したおり、持参していたKINEYAの製品を店開きしていたらあの社長さんが出て来て、「これらは何のレプリカですか?」っていきなり言ったらしいのね~
確かに、丸くって中が黒くてS字ハンドルなら「ヴォンフォフ」やし、レイズドピラーやったら「レナード」って思うよね~
でも、竹竿も「これはレーナードですか?」とか言われるんかな~?
K どうなんやろ、
竹竿に対してはオリジナル至上主義でレプリカを絶対に認めないっていう厳格な部分と、逆に妙に甘いところがあるからね~
どういうわけかビルダーに対しては評価が甘い人が多いよね。
使いもんにならんような竿を作っても、「これは味ですから・・・」とかで済んじゃうでしょ。
昔の「笑い話」やけど、同じ竿作られへんから「全部カスタム」ですってぶち上げといて、
あるお客さんに気に入ってもらえなかったら、違うお客さんへ、って使い回してる人がいたけどね~
「日本の渓流に合ったアクション・・・」とか「これは面白いでしょ」って風に抽象的な説明ばっかりしてる人もいたんやけど、あれはマジで言ってたんかな~? それって製作者のトークやないでしょ? キャッチセールスのセールストークってやつやね!
O あいつか!
K こんなん書いたら僕らもっと誤解されて嫌われるし、もうやめましょうよ。
この国にも、ちゃんとした釣り竿を作るビルダーさんはいてはるんやから・・・
O 僕も「渓谷に木霊するキャッツキルサウンド!」とか、ほざいてたけどね~
わ~また脱線 脱線・・・
その後の1995年から1996年にかけては、組み立て専門で上賀茂のマンションの地下工場に潜伏してたんや~
材料を選択して、この頃からやっとCADで部品の図面を起こして~、機械加工はこの頃も、下請けさんにお願いしてた。
そやけど、綺麗な図面を出してもなかなか思い通りの物が上がって来いひんの!
ネジ一本までがオリジナル品やったから、時間と部品のロスが多いって言うかねえ・・・
それに最終仕上げの表面処理で何度もダメになった・・最悪や!
小さなマイナスネジなんて既製品じゃないから、1,000本で単価100円!
ネジ代だけでも 年間100万円也〜
蹴飛ばして ばらまいてしまうと「100円玉やと思い!」って嫁さんに怒られた~~~
フットが、3ヶ月も出来てこなかったり・・・、上がってきた物は寸法は正確なのに変な感じ・・・
微妙な丸みとか、加工面の風合とか、主観的な思いを図面だけで伝えるのは難しいよ〜
そもそも、同じ物を見て来てないから無理なことなんやろけど、でも、そこが重要なポイントでしょ!
K 職人さんって、いくら腕がよくっても自分の概念にない物を作るのって難しいんですよ。
それで、なにからなにまで自分で作ろうとしたんですね。
O そうです、1997年にリールの製作に専念するために三条の店をやめて、北白川でマシンショップ、日本語では機械加工をするための工場ですよね、を始めたんです。
そこでいろいろあって、1999年に京都南インターを出てすぐの城南宮の近くに工場を移すまで、その北白川の工場で、M1.6のマイナスビスのような小さな部品からソルト用のフレームまで、あらゆるパーツを自分で削りだしてリールを作ってました。
下請けに出す図面を書く必要がなくなったから、作るの速かった〜!!
K 僕が初めて北白川の工場を訪ねたときのこと覚えてはりますか?
O 工場の中に入ってきて、川嵜さん、ボ~ゼンとしてはりましたよね。
K そりゃそうですよ、あんなもんを見たら・・・
リールを作ろうと思い立ったからって、あんな高価でごっつい機械を何台も買わないですよ。 CNCマシンだけで億は掛かったでしょ。 金型屋さんや産業機械メーカーならわかるけど、たかがって言うたらなんやけど、フライリール作るのに大型の汎用機買うなんて、あまりにも非常識っていうか・・・ 設備に投資する資金がないからって、手動の小型旋盤でリールを作るのもプロとしてはどうかと思うけど、あれはやり過ぎやって思ったの。 エーベルなんかでも、もともと機械加工屋さんだったので、そのアリ物の設備を使ってオーナーの趣味でフライリールを作ったわけでしょ。 他のリールメーカーも発祥をたどると概ねそんな感じじゃない。
奥居さんがやったことって、まったく反対やったからね。
とにかく、あまりにも非常識だったの!
ここからは僕「K」の回想です。
ある冬の日のこと、北白川に奥居さんの新しい工場を訪問した僕は、その機械設備を見て絶句したあげく、思わず吹き出してしまった。 そこには、なんと当時最先端のマザックの5軸CNC旋盤と3Dマシニングセンターがドンと据え付けてありました。他にも所狭しと各種の工作機械が並んでいる。 どう考えても、僕の目の前にあるこの設備はフライリールを作るなんていうレベルの物じゃないんですよ。 ざっと見て工作機械だけでも1億は掛かってましたからね。
「もとから変な人やったけど、とうとう奥居さん、気が狂ったんや」
「そもそも、この人にこんな機械扱えるのかいな・・・」
と、眼を疑ってしまうような光景でした。
奥居さん曰く、
「リールを作るのに必要最大限でしょ!」
「必要最大限ねえ・・・」 普通は必要最低限って言うんだろが・・・、
そりゃこれだけの設備があればなんでもできるかもしれんけど、って心の中で思いましたよ。
僕も機械メーカーなのでわかるのですが、奥居さんの馬鹿さ加減には狂気に近い物を感じました。そもそも設備にこれだけのコストを掛けて、はたしてフライリールを作るだけで採算が取れるんかな、ってことが最大の疑問でした。
40歳から未知の複雑なCNCを導入した奥居さんは、ダイエットもしないのにみるみる痩せていきましたね。
まあ、僕から見たら面白いおもちゃを与えられた子供が、食べることを忘れ、寝る間も惜しんで遊んでるようにも見えたのですが・・・ ただ、シロウトゆえの悲しさ、何回も機械をクラッシュさせては、
軸をゆがめたり刃物を吹っ飛ばしたりしていたようです。
その修理やメンテナンスにいくら掛かったことかなんて、考えるのもおぞましいですよ。
本人が言うには、
メーカーサポートに問い合わせるにも、「用語が解らない」「自分の思いが伝わらない」「聞くだけ時間の無駄!」
ってなことになってしまい、半年間は、マシンを思い通りに動かすプログラムを独学で寝食を忘れて昼夜没頭していたようです。
当時の奥居さんは、切削用のCNC機についての基本的なことをまったく知らなかったのだから、メーカーのサービススタッフとも意思の疎通が出来るわけがないんですよ。 また、素人であるがゆえに、プロでも嫌がるような難削性の新素材であるチタンや特殊なステンレスを最初からあたりまえのように切削加工していました。
「真鍮よりは削りにくいけど、ちょっと刃物の形を変えたら綺麗に削れるよ」って・・・
最初から難削材を使っている彼にとっては、高力チタンや高強度アロイを加工することが自然なことでけっして珍しいことではなかったのです。 そんなわけで、KINEYAのリールは最初からチタンや6000、7000系のアルミ合金(よく航空機用素材とか言われている6061-T6合金などですね。ジュラルミンと呼ぶ人もいます)を素材に使用して製作されていました。
2000年以降はさらに、SUS304、SUS316L等の硬質高耐食性ステンレス材を
惜しみなく適材適所に用いた贅沢な作りになっています。 このあたりは見た目ではなかなかわからないことなんですけどね。
これが自分が作る物へのメーカーとしてのこだわりなんでしょうね。
KINEYAリールでもっとも特筆すべき点は、
KINEYAのオーナーでもある奥居さん自身が、自分でリールをデザインし、そのリールは部品のすべてまで自分の手で制作した、ワンマンオペレーションだった、ということです。
もっとも、忙しいときには組み立てなどを手伝う人が工場にいたこともあったようですが。
奥居さんは、1997年以降(1998年に図面を渡して海外で生産された1機種を除き)すべてのOEM製品を、
「自分がデザインし、部品のすべてを自分で制作して組み立てた」
と言っています。
OEM先に「リールの図面を下さい」と言っても、相手が素人であれば話しは進まないし、図面が書ける人ならKINETYAに発注しなくても自分で工場に発注して製品を作ることが出来る訳ですから。
話しは変わりますが、1997年頃までのKINEYAは部品を外注していました。
最初の頃は方眼紙に鉛筆で下書きし、ボールペンで清書してから消しゴムで下書きを消して、
加工屋さんに持って行っていたようです。 そのうちにCADで図面を描くようになたようです。
1992年にリールの製作を始めた当時の面白い話しがあります。
「6φの穴に6φのシャフトが入らない!」
つまり、奥居さんは機械部品の作図に必要な基本をまったく知らなかったのです。
例えば「公差」と言う言葉がありますが、
6φ + 0,00 - 0,02 と記された場合
6,00φ~5,98φ で仕上げると言う意味で、それ以下でもそれ以上でも不可と言うことなのです。
発注した部品ができあがってきて、
フレームにプレート付け、軸受けとシャフトをセットすると、
「なんと回らない・・・!」
この時、すべての部品に公差を指示しなければ製品は出来ないと初めて知ったそうです。
他社製の多くの両軸受けのリールのはシャフト方向に結構な遊びがあります。
遊びが無いっていうのは回らないってことなんですね。
それでも、現在までKINEYAの両軸受けリールは極端に遊びが少なく、実際にガタつきの無い構造を有するシリーズもあります。
このことは、素人だからこそムキになった、「公差って何?」事件、からのこだわりなのだと思います。
素人の恐ろしさですね。
僕には、工場をいつ訪問しても、小さなネジからリール本体までを無垢の金属素材からすべて自分で削り出して組み立てている奥居さんの姿が印象的でした。 これも、よく考えてみれば、自ら新しいデザインの製品をどんどん開発して製作し、
そして売り続けなければ、この過剰とまで言える機械設備を消却することが出来なかったからだと思います。
一般のメーカーや普通の人とは違って、奥居さんにとっては、自分自身でなにもかもすることが最もコストが安かったわけです。
必然なのか偶然なのか、そのところは本人にもよくわからないようですが、奥居さんはリールの製作に40歳からの人生を賭けることになったわけですね。
ファクトリーを京北に移した今でもそうですが、奥居さんはいつも汚れた服を着て油まみれの手で工房の中を歩き回っています。
だから人に会おうとしないし、なかなか電話にも出ない。
その油が染みついてごつく傷だらけになった指や掌が、京都のええとこの「ぼん」として生まれ育った彼が、新しい技術を使いこなす腕のある本当の職人になったことの証拠だと思います。
もちろん技術だけでは新しいモノを生み出すことは出来ません。
奥居さんの非凡なところは、無からモノを創り出せるセンスと能力を持っていることです。
ちなみに彼の父上も、カメラ店を経営する傍ら、京都伝統美術工芸展に無審査で出展できる京都の工芸文化を伝える素晴らしい職人さんだったそうです。
奥居さん本人は、
「僕はセンスの良い設計者、センスの良いプログラマー、センスの良い職人、でも商売が下手な絶滅危惧種だ」
って、自分で言ってますがね。
K ところで、メーカー初期の頃は奥居さんってどんなリールを作ってたんだっけ。
いっぱい種類あったように思うけど。
さっき話してた、オーブントースターで焼いてたリールフットって、レイズドピラー・リールのフットだったよね。
O そうそう、フレームを銀張りにしたモデルに合わそう思っていろいろ試してね。
K 奥居さんが最初に作ったリールはなんだったんですか。
確かすごく小さなレイズドピラーリールだったように思うねんけど。
キャンディみたいに透明のビニールで包んでリボンを掛けて店の蓄音機の上に並べてあったでしょ。
O あれは2番目にデザインしたシリーズ。
初めて作ったのは、1992年にAというブランドへのOEMで作ったアルミの両軸受けリール。
K 思い出した、アルミから削り出した3本フレームのバーミンガムタイプやね。
あとで斜めになったフットを作って本体をオフセットするように進化したリール。
あのリールは「釣って釣って釣りまくる」ってキャッチフレーズのIさんが使ってけっこう流行ったよね。
同じブランドネームでのOEMで凄くなめらかなドラグを組み込んだ中~大型のモデルも作ったでしょ。ドラグノブを分解したらベアリングの玉が落っこちて困るリール。ADシリーズって名前だったよね。
あのリールのドラグは細いティペットを安心して使えるからマスの大物狙いによく使ってたよ。初期型のシャンパンゴールドとブラックを使ったアルマイトの色合いも、カチッとしたスクエアなデザインも格好良かったよね。
O あのADシリーズは1995年頃に、細いティペットで大きなレインボーなどに挑むために開発したドラッグ付きのリールで、世に言われる最もスムーズなドラッグ、なんてのとはまったく別次元の機構を持ったKINEYA独自のリールやったの。
従来のリールに使われているドラッグのテンション曲線はマイナスカーブを描くんやけど(滑り出すまでのテンションが最大で、滑り出したら弱くなる)、このリールのドラッグは逆にプラスカーブになる変動トルクリミッターだったのね。
言葉でいうなら 「ニュルギュウグググッ!」てな感じ。
始動するときは緩くて、ラインが動き出すとテンションが増える。
このリールにはマルチワインド仕様のもあって、スムーズで軽い巻き上げを演出するためにハンドルノブの中にもベアリングを挿入して総計7個のベアリングユニットを使ったなあ。
K ふ~ん、シマノの最高級スピニングリールみたいやね・・・
O しかし悲しいかな、このリールを海で使い、ドラッグを止める為にペンチでドラッグノブを締め付けるような下品な釣りをしたのは、なにを隠そうOEM納入先の卸屋さんだったからね~
K 販売元が取り扱い商品の特性もわからんと売ってるようではダメやね。
O そんな事件の後、腹が立ったのでスプール軸に乾式多板(チタン板7枚&テフロン板6枚)のインナードラッグを組み込みMax.15kgオーバーのテンションが発生するビッグゲーム用のフライリールを作ったんやけど、高価過ぎて売れんかったな~
K ずっとあのラインでいってたらボグダンを超えてたよ、きっと。
あのADドラグは、ボグダンサーモンのはるか上をいってたもんね。
で、その次にあの銀黒のミルズタイプのリールを作ったんだ。
O AってブランドのOEMと平行してやけど。
K 確かIってブランドだったよね。
O 1993年にDT#1F用の“Mills”ミルズタイプとして100台を限定生産したんだけど、あのリールはわざと古くさいバリバリした回転の雰囲気を出すためにラチェットギアーの歯数を16枚に落として、外観にもクラッシックな風合いを表現したくてアルミのフレームに細かい不規則な打痕を入れたり、サイドプレートに使ったベークライトの板をつや消しにしたりね。
K ずいぶん遊だんだ、どうりで最初っからボロかったわけだね~(笑)
O ボロいんちゃうの、わざとボロく見えるようにしたの。
K でもクレームが来たってブツクサ言ってたやんか。
O あれは、サンプルにって渡されたフットがペラペラでブッサイクやったから、ステンレスでかっこいい小型のフットを削り出したったら、「竿とセットの限定なのに その竿に着かない!」って文句付けられたんや。
K そのあとで少し大きいのと、銀張りのを作ったよね。
O そう、DT3用のモデルと、その銀張りバージョン。
K このIブランドのリールってどれぐらい作ったの。
O 1996年までに350台ほどかな。
K 僕はこのあたりのリールはみんな買ったよ。
あと、なんか妙なのも作ってたでしょ。
そうそう、曲がったハンドルが付いた穴だらけのレイズドピラー。
O あれはリールを軽量化しようと思って、試作に穴だらけにしたフレームとスプールを作ってたら、それを見た某氏の目に留まり、自分のブランドに欲しいっていうことで ハンドルの形状等を変えてロゴをいれ、供給させてもらったんや~。
このリールも1994年頃から95年モデルってのを作り出し、96年モデルと、97年モデルやったかな~、とにかく3年間にわたって合計で350台ほど作ったかな~
翌年も某氏はリールの注文を出してくれたんやけど、間に入ってた卸業者とややこしくなって・・ブツブツブツ・・・(中略!)
リールの図面と特許とかをまとめて300円で業者に買い取らせて、その工場から機械持って出て行ったったんや。
そんなわけで北白川工場はチン、お終い。その日のうちに移転先決めたんじゃ~
(・・・日本酒の酔いが回ってテンションが高くなるキネヤ主人)
まあ、僕みたいな独裁者が、卸業者の援助受け入れたのが間違いやった!
感謝はしてるけどね・・・
K 他にも、ハンドルノブににドラグを組み込んだマルチプライヤーもあったね。
O あれも面白いリールやってんけど、使い方がわからんって言われて売れんかったな~
第3章 キネヤ年代記、外伝
LMリール(The Leonard Mills Reel Ron Kusse Maker) のこと
K さて、いろいろ話は飛びますが、次は世界中でいろんな噂や流言飛語が飛び交い、またこの国のフライフィッシャーの皆さんも興味を持っていると思う、内部コードLM、”The Leonard Mills Reel”について、張本人の奥居さんに話して頂こうと思います。
O もうこの話するの?
張本人って、なんか犯人みたいやけど・・・
う~ん、これにもいろいろあるからね~
K また、いろいろあるからね~、ですか(笑)
この”The Leonard Mills Reel”、
奥居さんがいちばん最初に作ったModel 50ですが、僕も組み上がる前から買いましたよ。
誕生日と同じシリアルナンバーのは僕のやからね、なんてわがまま言って。
O 覚えてますよ、ご祝儀買いしてくれはったでしょ。
そのあと、そのお金持って木屋町に繰り出してね~
マグロの赤身を食い比べたり、サザエの腸なんか食いましたね~
高瀬川を見下ろすショットバーでライカの話しとかしてね~
懐かしいですわ・・・夜中にカモなんば食って、一銭洋食も食べましたね。
よう食べる人やと思いましたわ。 食い歩きのええ連れができたって嬉しかったです。
もう今はあんなに食えませんが。
K 大阪の夜の街と違って風情がありましたよね~、木屋町界隈は・・・
その話は置いといてリールのことに戻りますけど、
あのLMリールって、The Leonard Mills Reel Ron Kusse Maker、ってサイドプレートに刻印されてますよね。
O あのリールはね~、1994年に当時輸入代理店をしていた東部のロッドメーカーのお宅を訪問したおりに、
昔のLeonard M50を、「このリールを作ってくれ」って手渡されたんやね。
2ヶ月ほどかけて、材質以外はそのM50をフルコピーしたリールを作ったんよ。
最初はフットもオリジナルのM50と同じスタイルで、薄板を曲げて下部ピラーにロウ付けしたものを使っててんけどね。
K そうそう、最初のLM50(※これ以降 The Leonard Mills Reel Ron Kusse Maker のことを、LMと省略して表記します)はサイドプレートの外周だけがアルミで、内側は内部までぶ厚いエンプラ(エンジニアリングプラスチック)やったよね。
こいつがアルミフレームの中でクルクル回って、使うたびに刻印が変なところに行ったりしておもろかった(笑)
O すんません・・・
K それに、あのオリジと同型のペラッとした薄いフットがどの竿のリールシートとも相性が悪くて、確か少し後で奥居さんが作った今風のステンレス削り出しに変えたんだったよね。
O ほんまわがままな人やから・・・。
僕も、あのフットは自分で作りながらあかんって思ってた。高低差がないのでスライドリングじゃ止まらんからね~
まあ、その僕が作ったM50を送ったったら、キューシーさんえらい喜びよって、
「わしがええゆたらええねん、わしが権利持ってるから・・・」
みたいな感じで、あの、「The Leonard Mills Reel Ron Kusse Maker」という刻印をサイドプレートに入ることになったんやね。
K でもキューシーって、いっときレナードの副社長をしてたっていうだけでそんな商標とか持ってたの?
O まあ、あっちの事情はわからんけど本人が問題ないっていうとったからね。
それに最初は「なんでおまえは自分の名前を入れないのだ」って言われてたんやけど、そんなんおこがましいやんか。
K でもM50のフルコピーじゃないんでしょ。たしかチタン使ったりしてたよね。
O フライラインを引く出す時にカウンターバランスの無いシングルハンドルはブルブルって震えが大きいでしょ。これはこれでスプールの回転が鈍るからバックラッシュを抑制できる効果もあるんやけど、気持ち悪いやんか。 それで軽量で強度のあるチタンをハンドル本体とノブシャフトに使って回転時の振れをおさえようとしたんやね。
K なるほどね~、そんな理由があったんだ。
O 自己満足やけどね~
K マニアの道具やから(笑)
この初代M50のあと、ちいさいM44とか、裏がつるっとしたヘソのないM50や、Bi-Metalのシリーズを作ったんだよね。
O M44D/Eと、M50D/E、それに、Bi-metal。
これらのリールは、広島の Y 先生が所有してはる様々なバリエーションの「Leonard Mills Reel」を見せて頂いて、そこからインスピレーションを得てデザインしたもので、過去にレナード社で販売されていたリールのコピーというわけじゃなかった。 と言うか 特にBi-metal 等は、オリジナルの洋銀プレートがプレスで成形されているんだけど 当時プレスの型を自分で作れなかったので 削り出して作った。 それから、Y 先生が指摘されていたラインキャパシティーの問題で スプール幅も 25.4mm(1インチ)に拡げた! だから DT4Fが巻ける訳ね~ 外見的なデザインだけじゃなく内部構造も都合のよいように変えたしね。
そんなわけで、Model 44以降はオリジナルのレナードとはリムのアールのデザインやその他の細部が異なるんだよ。
完全レプリカにこだわらずに、リールとしてのデザインの完成度を追求した製品で、
それがキューシーさんの大いに気に入るところとなったみたいやね。
O それらのリールをキューシーさんにも送っていたんね~
「The Leonard Mills Reel Ron Kusse Maker」っていう名前の使用料として生産数の10%をアメリカに送ってたから・・・。
O おとっつぁん、たいそう喜んどったんよ。
Bi-Metal を送ったときは届くや否や電話をして来て、興奮してなにをいってるのかわからんような勢いで喋りまくってね、なんとか理解出来たのは、「宝石だ! 今、私は首がらぶら下げている!」 みたいなことやってんけど・・・
LM50Eは最初は気に入らんかったみたいやね。
「裏面になぜ軸受けがないのだ、見慣れないよ・・前の形が私は好きなんだけど・・・」
って言ってたんだけど、 「後ろはべアリングで受けてるんだよ」って説明したら、
「そうなんか~」なんて感じで逆に喜んでた。
そしたら、’96年頃に突然、
「これをリールに付けろ」って、封筒と一緒にこんなもんを送ってきてね~
K これがあれなんだよね~、
LMリールは、ロン・キューシーが作ったアメリカ製のリールだっていう世界中の誤解の元凶。
メーカーである「KINAYA」の名前は何処にも出てこないし、読み方によっては、
「わしが作ってる!」 みたいなサインまで入っているんやから無理もないけどね~
この国のショップやユーザーもそうやけど、海外でも同じような事が起こってるでしょ。
ebay のネットオークションでも「THE LEONARD MILLS REEL Ron kuss maker」 が、Made in U.S.A と商品説明されていた記憶があるしね。
O まあ、それもあるねんけどね~
でも、このリールは国内での販売がほとんどやったから、問題は卸業者の売り方にあったんよね~
営業的にレナードやロン・キューシーっていうブランド名を使った方が売りやすかったんやろ。
小売店にもユーザーにも、ちゃんと説明せんと黙っといたら、勝手にこのリールはアメリカ製やっていいように誤解してくれるからね
当時、代理店に、雑誌に載せるから「何か書いてくれ」って言われて、
「何も言わないで勝手にアメリカ製だと勘違いさせ、代理店が儲けた製品だ」って、
皮肉を書いて提出したんだけど、却下されたよ〜
「小売店もお客さんもアメリカ製やと思って喜んだはるんやし、よろ しいやん、何にも聞かれへんし、誰も嘘ついてません」って代理店の担当者が言うとったわ。
K あまり感心できない商売のやりかただよね~
O その言葉に納得した僕も悪い奴やなあ~、ごめんな~
当時は、なんか~ 今とは逆で、日米双方でアメリカ製やって思われるのが心地よかったんやわ~
僕が作ったリールが本場で認められたってね。
K でも、ユーザーが日本製よりも海外で作られた製品の方を求めているって言うか、外国製の方が良いって思っている、ってところにも問題はあるんだよね。 それにさ、このリールが未だに海外製だと信じているユーザーが存在しているという事実こそが日本のフライ業界に取ってはマイナスなんとちがうかなあ。 日本のフライ業界って、フックとハリス屋さん以外は、ほとんどが海外のタックルを輸入してる卸業者でしょ。 こういう時代だからこそ、円高になったからって海外からタックルを買い漁るだけじゃなく、よけいに「MADE IN JAPAN」ってなんなのか、ってことから考えないといけないんだと思うよ。
(「花垣 冬のしぼりたて」が無くなったので、CaliforniaはSonomaのZinfandelを飲み始める二人・・・)
K そのうちにキューシーさんはリールを受け取るだけで、ちっとも竿を送ってこなくなった、って言ってたよね。
O バンブーロッドの製作なんてめんどくさくなったんとちがうかな?
だいたい、送金したのに、いつまでたっても竿送ってこないし、病気やて言い出すし・・・
そんなこんなで、LMリールも作るの止めたんやけどね~
K この「The Leonard Mills Reel Ron Kusse Maker」のシリーズって、結局みんなで何台ぐらい作ったんだっけ?
O 1994年から1997年の生産終了まで、Bi-Metalを入れて累計で950台分のパーツをカットした記録があるんやけど・・・
まだそこらに片割れが転がったはるでしょ~
おっちゃん ほとぼり冷めたって思ったんか、数年前に、LMリールの再生産の話をしてきたんやけど、
そんなん気分悪いやんか。 はっきり断ったんよね。 でも、元気な声やったよ!
そやから、今売ってるのが「正真正銘 MADE IN U.S.A 」じゃ~、ちがうかっ!
K そう、そのいま彼のウェブサイトで売ってるリールやけど、
「Made in U.S.A.」の「The Leonard Mills Reel Ron Kusse Maker M50」っていうあのリールね、
どこで作らせてるのかわからんけど、なんかすごく変なんだよ。
オリジナルの「Leonard Mills Reel Model 50」のコピーじゃなくって、奥居さんが作った最後期の「裏にヘソがない」タイプの、最もオリジナルとは遠いデザインの「LM50E」のデッドコピーでしょ。
しかも、仕上がりのレベルが「KINEYA」モノとは比較にならないしね。
こうなってきたら、なにがオリジかまったくわからんようになってくるね~(笑)
今から振り返ってみると、これら「KINEYA」が作った「The Leonard Mills Reel Ron Kusse Maker」って刻印のある一連のライズドピラー・リールが、忘れ去れかけていた過去の名品を蘇らせたとも言えるよね。
本物は古びた骨董品としての良さがあるけど、実際にフィールドで使うには機能という点ではちょっと問題があるでしょ。ガタが出てたりクリックが弱かったりしてね。
ボン・ホフ系のリプロダクション物はウォーカーとかサラシオーネとかが作ってたけど、ライズドピラー型の優美なアメリカン・クラシック・デザインを現代によみがえらせたのは奥居さんだったわけじゃない。
このリールの優美なデザインと作りの良さが、ある意味オリジナルの価値を高めて、その後いろんなメーカーにライズドピラースタイルのリールを作らせる原因になったとも考えられるでしょ。
その中のメインストリームは、今でもやはり「KINEYA」の「REED」シリーズだし、奥居さんと僕が作ってる「ALCHEMY」のリールだと思うけどね。
「REED」はデザインとして、より先へ向かって進んでいるし、「ALCHEMY」は原点回帰志向って感じだけどさ~
(二人とも酔いが回り、自画自賛大会始まる。京北の夜も深まっていくのですが・・・)
第4章 KINEYA 城南宮から京北へ
K ところで、京北に来る前に城南宮の近くの貸し工場でしばらくやってたよね。
O 名神京都南インターを降りて少し南に下がったあたりに連棟の貸し工場があってね〜
ところで川㟢さんどないして来たん?
携帯で、あれが見えるこれが見えるとか言いながら、やったか?
前がネギ畑でのどかやった〜
冬は寒かった〜
夏暑かった〜
工場の隅に山小屋風の小屋を作って事務所にしてたね〜
(酔っぱらって記憶の回路にスイッチが入り、当時の回想に耽る奥居さん・・・)
すっからかんで出て来たからな〜
引っ越し当時は作れる新型リールが無くて、つてをたよりにカメラの部品とルアー用品を作った。
年が明け、新型のリールを作り始めたんやね~
そんなある日、 同窓会で久しぶりに会った友人から映像関係の部品を依頼されて今も作ってる・・・。
さらに、簡単な医療関係の製品開発など釣り具以外の仕事が増え出し国際特許収得。
これは複雑な加工が出来る機械と 幼い頃から培われていた機械メカニズムに対する深い造詣が功を奏 したようだ・・・??
冬期の徹夜は耐えられず、機械の前に段ボールでホームレスタイプの小屋を作り、中に小さなストーブを入れて、その上でインスタントラーメン炊きながら仕事をしていたのだ。
親戚の子が遊びに来て、
「・・・・・ お おっちゃん、何でこんな・・・貧乏なん?」って言われた〜
嫁はんと一緒に三條の家から自転車で40分ほど雨の日も雪の日も通ってたな〜
僕は休日無し! 嫁はんが休みの日は 作ってくれた弁当を工場に着いたらいきなり食べたな〜
毎月支払い出来ひんし、大阪の姉とこまで何度も行って助けてもろたわ。
ほんでも、2000年から「KIYEYA」をなんとかはじめた。
とにかく、出るたび新製品やから販売店さんは買ってくれたけど、どないもならんとき、Bi-metalのパーツをかき集めて10台ほど流した事もあった・・・ もちろん、「made by KINEYA」って言てやで〜
製品をだす事が、安定につながると信じて沢山作ったわ〜
ほんでまた、調子が出て来た頃に飽きるんやね~
「こんなとこで、夢売る事できないよ〜」から始ま り・・・
「田舎行った方が 経費安いで〜」ってな現実的に正当化論理を展開して、これは事実やった!
「前で、カフェしたら良いよ」ってそそのかし・・・
「息子も一緒に働けるぞ〜」と家族大切感をにじませ・・・
「孫が出来ても、田舎は、楽しいぞ〜」と幸せな夢を抱かせ・・・
っで、いきなり、京北へ移住!
ところが、
工務店途中で消えよった。 工場の完成、5ヶ月遅れた〜
野菜頂ける 山菜採り放題 空気 水 最高! ここまでは、OK
カフェ>>>お客さんいてへん
息子>>>>本屋もコンビニも無い、車乗らんし
生活出来ん言うて街帰りよった!
孫>>>>>息子と娘たして60歳近いのに結婚する気ない!
おまけに、指がノコ板でズリズリになったり・・・・仕事する気無くなってね〜
でも、友人は町にいた頃の何十倍も、遊びに来てくれた。
だから、鮎食べ大会したり、山菜大会、蕎麦大会 ・・・
片波地区に群生する杉の巨木を拝みに行く会なんか凄いやろ〜
オヤジバンド大会はしょっちゅうやってるし、
金は相変わらずないけど、金あっても得られん楽しみ得たぞ〜〜じゃ
ざまあみろ〜
そろそろ 今までと少し違った捉え方の生産物が出来るんと違うかな・・・
充電できたかも・・・
K ところでさあ、
2000年に奥居さんがブランドとしての「KINEYA」を立ち上げたときのコンセプトって、なんかあったでしょ。
以前のウェブサイトに上げてたやつ。
え~っと、確か、ポストモダンがどうとかって・・・
O アール・ヌーボーとか言うてたね~
K ポストモダニズムは前世紀末のアール・ヌーボの再評価みたいなもんやんか。
酔っぱらってるときにフランス辺りの思想みたいなのはややこしいからええねんけどさ~、
そのウェブデータ、どっかに残ってないの?
O ファイルがあるよ、確かこの辺に・・・
(と、ワインを入れたコップを片手にMacをいじくる奥居さん)
O あ、ほらでてきた、これこれ・・・。
Our Concept as….. Art Nouveau
“アール・ヌーヴォ”とフライフィッシング・タックル
19世紀、ヨーロッパで起こり世界を席巻した産業革命により、日用品から建築物に至るまでありとあらゆるモノが大量生産され、現代にまで繋がる資本主義経済と自由競争の時代が幕を開けました。
しかし、大量生産され使い捨てされてゆくモノへの疑問を感じたヨーロッパの一部の芸術家たちは、モノに自身を表現し個性を主張させることで、モノの持つ可能性を追求しようとし始めました。主に建築界から起ったその表現方法は後に“アール・ヌーヴォ”と呼ばれた様式で、従来、石や木などで隠されていた建築物の金属柱や新素材を、むき出しのありのままの姿で、しかもそれらが自由に加工できる特性を活かして美しい曲線を描かせるものでした。
その様式美は、建築界だけでなく他のジャンルの芸術にも多大な影響を与え、大きな広がりをみせるに至りましたが、やがて、極端な曲線構造だけの芸術などまでもが“アール・ヌーヴォ”と称され、その様式のみが形骸化されて本質を見失い、徐々に衰退していくこととなります。
しかしながらそれが芸術界に残した影響は非常に大きく、19世紀中頃から末頃にかけてアメリカを中心に大きな飛躍を遂げたフライフィッシング・タックルの世界にもその余波が押し寄せました。有名なPhilbrook & Payne からWilliam Mills & Sons、Leonard に繋がる一連のレイズド・ピラー・リールや、Julius & Edward Vom Hofe 兄弟のリールの膨大な作品群にも、リムのアールの曲線、プレートの面のアール、ハンドルアームの描く美しい曲線、細かな部品の曲線や飾り模様など、あるいはハード・ラバーという新素材や、ブラス、ニッケルシルバーなどの合金(当時の新素材)を多用したことなど、“アール・ヌーヴォ”の影響をなくしては語りえないものです。
やがてはヨーロッパ同様、様式のみが形骸化されて、さらなるフライフィッシングの市場の拡大とともに大量のコピー製品が出回ったりし、“アール・ヌーヴォ”の本質は見失われ歴史の彼方に消えていくことになったのですが、ごく一部の芸術家、Arthur L. Walker やStan Bogdan などが、連綿とその本質を受け継ぎ、継承してきました。
フライフィッシングの市場が爆発的に拡大した1960年代以降、フライロッドの世界ではバンブーからグラス、やがてはグラファイトへ、フライリールの世界ではより機能的で加工が容易な構造へと、フライフィッシング・タックルは大量生産の時代に突入することになりました。機能と美の融合を基本にした“アール・ヌーヴォ”の時代の創造コンセプトが、釣りそのものに必要な機能性を追求し余計なものは排除する耳触りのいい宣伝文句に置き換えられ、その市場は拡大の一途を辿りました。
しかしその一方で、昨今、過去の名品、バンブーロッドやアンティーク・リールなどが注目を集めていることもまた事実であり、それはやはり現代の最新型のタックルに飽き足らない人々が存在する証しでもあります。
では、一体何故現代の最新型のタックルに飽き足らないのでしょうか?
ただの懐古趣味的ブランド指向? あるいは無いものねだり?
それとも・・・・・・?
KINEYAの創造コンセプト
フライフィッシングが、ヒトとしての主体性を表現することのできる素晴らしい趣味であり得る重要な理由のひとつは、現代のような大量生産の時代にあってもなお、個としての美しさを表現した道具を持ちたいと願う人々が少なからず存在することです。
KINEYA では、現代だからこそできる新鮮な発想と機能、それに融合する道具としての美しさを追求した製品を製作し、そのような人々にこそお使いいただきたいと考えています。19世紀、“アール・ヌーヴォ”が量産に抗して個々のモノの持つ独自の機能と美の融合を追求し、それを評価できる審美眼を持った人々がいたように、現代にも、個としての機能と美を兼ね備えた個性ある道具をご理解いただける人々がおられると小社では考えています。そしてその人々こそ、真に遊びとしてのフライフィッシングを楽しんでおられる方々であり、このようなメーカーのこのようなページ、その最下段まで目を通していただいた、あなた自身なのです。
あなた自身の感性に合ったものを、あなた自身の目でお選びください。さりげなく個性を演出するのがフライフィッシャーマン&ウーマンの“粋”であり、その“粋”を知る方のためにこそ、KINEYA は存在いたします。
©COPYRIGHT 2000 KINEYA TACKLE MAKER
K これ奥居さんが書いたんとちゃうでしょ。
O そうそう、グッとくる捨て台詞は僕の言葉やけど(笑)
第三者的に、当時の営業君が理由付してくれたんや。
デザインがどうのこうのってのは評論家の話しでしょ!
いつも言うけど、作る側は「記憶を辿りながら創造する」それだけやからね。
かりに、一時期、同じ物を見ていたとしても、過去の蓄積が違えば、作品は同じ様にはならんでしょ!
K 「ごく一部の芸術家、Arthur L. Walker やStan Bogdan などが、連綿とその本質を受け継ぎ、継承してきました。」なんてコト奥居さんが書くわけないもんね。
それにボグダンなんか曲がったハンドルだけがヌーボなんかって感じでモダニズムの産物やから相容れへんし・・・
僕も近現代のデザイン思想ってよくわかってないから恥かくのイヤやしこの話はやめよ。
O ふたりとも、よっぱらいやからね~
(そんなわけで、第五章、「KINEYA」の将来へまで至らずにこの夜の対談はおしまいです。)
第5章 日本のハイランドミルズ
K 深夜に至る奥居さんとの対談は、お互いに酔いつぶれてリタイヤ状態になってしまったので、奥居さんが京北に来てすぐの頃に書いたブログをここに転載して、この「キネヤ年代記」のための対談はおしまいにします。
2004年11月13日(土)
で、引っ越したのだ!
自分の幸せを一番に考えた自然体の行動だけれど 家族に言 わせると、
~納得も何も考える間もなく本屋さんもコンビニもない所に 強制移動させられた・・・。
しかしそんなもん僕の知った事ではない。
~人生で一番がん ばらんとあかん~時期に良い環境の地へ移るのは健全な人間の証ですよ!
でも、いろいろあったのよ。
この折、また1年勉強させてもらった。(もうかんにんしてくれ~~)。
そしてようやく仕事以外?は落ち着いた。
近所の人たちとも仲良くやってる。
そして、何より楽しいのが、近所の寄り合い だ。
それはど真ん中に住んでた僕にとって ウルルン滞在記の体験板みたいなものなのです。
幼い頃の楽しい思い出が、そう! ここでは日常、当たり前の出来事。
宴会ではいつも大人の席の他に小さなテーブル
(幼稚園で園児がべた座りして使う長机)が用意されるのです。
子供をみんなで育てるのが自然らしく 、
強面のおやじさんやおばさんがみんなをだっこして世話をするので す。
もちろん、少し大きなお姉ちゃんがヨチヨチ歩きの子たちと手をつなぎ
「かーごめかごめ」ってやるんですよ。
小さな子供がたくさん住んでることイコール豊かな自然が残っていると
(渓流 でも同じように稚魚が多いと)感じてしまうのです。
村中どこへ行っても知り合いがいるって言うのも良いものです。
とにかく、朝霧の中に鹿の声、これって良いでしょ。
かつては、明け方まで打ち上げ花火とその煙、シャッターにはゲロゲロ。※1
考え方も少しは シンプルに戻れたかな?
※1 「KINEYA」は三条大橋から西へわずか20歩ばかりの三条通りに面していたのです。
〈付録〉 「KINEYA」 年表と歴代のモデル
※注 「KINEYA」各モデルの出荷台数は2008年末までのものです。
1982年~クラシック・カメラの仕入れにアメリカへ。
1987年~この頃からクラシック・タックルの輸入を始める。
1988年 6月京都三条のカメラ店を改装し「KINEYA」をオープン。
1992年OEM「A」 / No.2
OEM「I」 / #1(限定)
1993~1994年OEM「A」/ AMD AD-3
AD-4 No.1 No.2
OEM「F」 / 95 etc
1994~1995年上賀茂工房
LM / M-50 M-44 / OEM「A」 / SW-6 3S No.2
OEM「 I 」 / T BT
OEM「 F」 / 96
1996年OEM「A」 / AD-4M
LM / Bi-metal-BT M-50D M-44D
OEM「F」 / 97 etc.
1997~1999年北白川工場
LM / Bi-metal-T / BT / F / M-50E / M-44E
OEM SE-99 SE-Mark -1
OEM メジャーリール
ロッドパーツ
OEM ルアー釣り具用品 etc.
1999年 10月~城南宮工場
OEM 「M」 2種 OEM 「K」 2種
2000年 「 KINEYA 」発進
2000-05-01 MODEL 100 REEL
2000-05-20 MODEL 500 S/G/B REEL
2000-07-01 BABY TROUT BAG GS
2000-08-15 SPRING NET S
2000-08-15 CC BAG
2000-08-24 MODEL 200 REEL
2000-10-01 MODEL 502 S/G REEL
2000-10-01 SPRING NET M
2000-10-20 MODEL 503 S/ G REEL
2000-12-12 MODEL 300 A/BREEL
2001-04-01 MODEL 301 A/B REEL
2001-04-01 TYING TOOL
2001-05-01 MODEL 310 REEL
2001-07-01 QUAD SPLIT CANE ROD
2001-08-31 MODEL 313 A/B
2001-11-13 MODEL 700 REEL
2002-01-25 MODEL 302 A/B REEL
2002-03-13 GRAPHITE ROD
2002-03-22BABY TROUT BAG
2002-04-12 CAVOUS REEL
2002-04-21 Leonard Mills BM 10台
2002-05-14 CAVOUS Ni REEL
2002-06-03 MODEL 700 N REEL
2002-07-03 MODEL 701 & 702 REEL
2002-07-19 MODEL 706 REEL
2003-02-10 MODEL 705 REEL
2003-05-27 COMPONENTS SAMPLE
2003-07-18 THE REED REEL Model 45
2003-08-26 PREMIUM FLY PATCH
2003-09-25 MODEL 703, 704 REEL
2003-11-07 PRO SHOP CUSTOM REEL
2004-01-01 CAVOUS COMBI BS REEL
2004-01-14MINOR-CHANGE / MODEL 300 SERIES HANDLE KNOB
2004-03-16 BI-METAL REEL MEASURE
2004-07-02 CAVOUS Bronze REEL
2004-07-13 THE REED REEL Model 48
2004-08-23 MODEL 305, 306 REEL
2004-09-13MODEL 300 シリーズ・マイナーチェンジ
2004-09-17 CAVOUS COMBI BZ REEL
2004-10-22PRO SHOP CUSTOM REEL
2004-10-22 GLASS ROD “AMBER SHADOW”
2004-10-29 SPRING NET L size
〈あとがき〉 キネヤさんのこと
冒頭に、
あまたある「日本のフライフィッシングタックルメーカ」の中で、
ただひとり孤高のポジションにある「KINEYA」
もっとも異彩を放つドメスティックブランド、
「KINEYA」とはいったいなんなのか。「KINEYA」を「KINEYA」ならしめている、キネヤ主人こと奥居正敏。
みずからはこれまでなにも語ることをしなかった、
奥居正敏との対談を通して、「KINEYA」の歴史をたどりながら、
「KINEYA」デザインと「KINEYA」的スタイルを明らかにします。 と書いたのですが、
はたして「キネヤさんのこと」を「ちゃんと語る」ことが出来たのだろうか、
と考えると僕は少し不安です。
この小文ではかなり緩やかなフィルターを掛けてはいるものの、キネヤと、その主人である奥居さんの仕事について語ることは、この国のフライフィッシング業界のかなりの部分に疑問を呈することでもありました。
この国ではフライフィッシングに関連したビジネスも他の業界と同じく、「いかに安く仕入れて高く売るかという利潤の追求」そして、「商品を売り続けるために、どのようにしてこれまでの物に飽きさせて新しい物に興味を持たせるかという、売らんがための戦略」というようなことを延々と繰り返し続けてきたように感じられます。
そのユーザーと小売店を軽視したともいえる利幅追求、買い換え訴求的なビジネスの歪みが、結果的に市場を縮小させていき、そして閉塞させてしまったようにも思えます。
確かに余暇の過ごし方の変化や全体経済のひっ迫という理由もあるでしょう。しかし、それはこの国のフライフィッシングと、それを取り巻く業界がどこかで間違った道をたどってきたことの結果であり、またそれが、ビジネスや産業としてのフライフィッシングがほとんど崩壊寸前とも見えるがごとくに衰退したようにさえ感じられる今の状況を引き起こした原因だったのではないでしょうか。
「KINEYA」はキネヤ主人こと奥居さんの本能とも言っていいような感覚で、この国のフライフィッシング業界のなかでも一線を画した仕事をしてきました。
約20年前の、その最初から「KINEYA」は大量生産・大量消費や利潤を追求するための低生産コストでの企画物などといったありふれた流通経済のシステムからはみ出していたのです。
奥居さんは、誰よりも早くモノゴトの核心部に飛び込み、売れ筋になるであろうモノを見つけ、また自分の手でモノを作り出していたのです。 モノを見る目と、モノを作り出せる能力、それが「KINEYA」の両軸です。
しかし、それはビジネスとして綿密に企画した行為や結果ではなく、奥居さんの本当に欲しい物を手に入れて使いたい、無いのなら自分で作ろう、という「遊びごころ」つまり創造的ワガママから始まったことなのです。
そして、「KINEYA」はいつも時代の先端にいる。 いや、先走りすぎていた、と言ってもいいでしょう。
市場が「KINEYA」に追いついてきたときには、
同じことの繰り返しに満足できない奥居さんはすでに次のことを始めていたからです。
クラシック・タックルショップがそうですし、メーカーを立ち上げたこともその流れの中にあります。
「H. L. Leonard」 の墓碑の前で「世界一のメーカーになります」とみずから言挙げしたわけですしね。
「KINEYA」がメーカーになってからは、奥居さんはその時々に自分自身が欲しい物を、自分が使いたい物だけを製品として創り出してきました。 奥居さんの中では自分自身が「制作者=ユーザー」だったわけです。
そのワガママを通すためには、フライタックル関連商品の占める売り上げがマシンショップ(精密機械加工メーカー)としての「KINEYA」総売上の約30%程度である、ということも重要な要素です。
「KINEYA TACKLE MAKER」を始めてからの奥居さんはひたすら制作者、表現者、クリエイターそしてプロデューサーであろうとしてきました。
本来の日本には、その種のクリエイターを贔屓にし、パトロネージュすることによって、自分たちが一緒になって楽しむという習慣、つまり文化がありました。特に京都という街が古から日本の工芸文化と「遊び」の中心であり続けたのにはこのような理由があったのです。
モノを買うということは、それを創っている人を育てるということ。
そして、その人と一緒に「遊ぶ」ということ。
もちろん、そのためには所有して使うだけの価値のあるモノを創り出せる作り手と、モノの本質を見抜くことができる目の肥えたユーザー、そして、制作者とユーザーの相互作用が機能するシンプルな流通システムなどが必要になってくるのですが・・・。
いま奥居さんは煩瑣な京都市街から、京北という上桂川が流れる美しい土地へと「KINEYA」を移し、そこに住んでいます。
この京北という歴史ある自然に恵まれた地をベースに、趣味性と完成度の高いフライリールやフライフィッシングのためのタックルを製作しながら、フライフィッシングだけにこだわることなく、気持ちのいい上質な「あそび」のための「モノ・コト」を創り出そうとしています。
マシンショップに併設されているカフェ“EUFORIA(ユーフォリア)”はその「あそび」のためのスペースにもなっているのです。
「KINEYA」が京北に移って5年目を迎え、漁協をはじめ積極的にこの地域に根ざした活動に参加している奥居さんには、「あそび」のために必要な場の創出さえもが視界のなかに見えているようです。
Alchemy Tackle
川嵜明彦